HISTORY


私には一般的な「家族」の体験がほとんどありません。

それは私が生まれ育ったの家の生活環境と関係があります……


わがままを言ったり、迷惑をかけたら、

嫌われる、と思い込んでいました。




私のことを我が子のようにかわいがってくれた「パパ」と「ママ」

両親とは違い、自分だけを見てくれる二人に、心底安心しきっていました。


自分のことを肯定してくれたことが、

涙が出るほど嬉しかった。



五歳のとき、里親の「パパ」と「ママ」が突然いなくなりました。

夏の暑い日。いつものように幼稚園から帰り、里親の家に行くと…


「寂しいよ」と言えたなら、

その後の人生は変わっていたかもしれません。




ー小学1年生ー

姉に対して突然、死の宣告。両親は姉の命を守るために姉に掛かりきりになりました。

そして、最先端の治療を受けさせるため、ますます仕事に打ち込むようになりました。


事情の分からない私は、

「僕は愛されていないんだ。と、

1人で孤独感を募らせていきました。



ー小学校中学年ー

「僕は何のために生きているの?」「生きる価値があるの?」と自問自答の日々。

全ての物事を斜めから見て、全ての人を斜めから見て、いつも空虚で心にぽっかりと穴が空いていました。


本当はどうしたいのか。

自分と向き合わなければ出口は見えてこない。



ー小学4年ー

自転車で家から帰る途中、突然自分が誰だかわからなくなりました。

幻聴や幻覚が聞こえ、精神的な症状が出はじめたのはこの頃からです。

でも、こんなことを言ったら、ますます変な子どもだと思われる。

「誰にも言えない」という感情は、いつしか「どうせ誰も理解してくれない。」に変化して、

ますます孤独を感じるようになりました。



幻聴も幻覚も人に打ち明けず、

「誰にも言えない」という感情はいつしか

「どうせ誰も理解してくれない」に変わりました。


ー小学5年生ー

私は小学生の頃から、誰とも遊ばずに、一人で本を読んでばかりいました。

江戸川乱歩の『怪人二十面相』の他のシリーズもないかなと探していると、

隣の棚に興味をそそられる一冊がありました。

「『ゲーテ格言集』ってなんだろう?」

そう思い、とりあえず手に取ってみると...。


すべての人に信じてもらえなくてもいい、

せめて自分だけは自分を信じるんだ。




ー中学時代ー

誰も信用できない、誰にも理解されない。「人」に対して諦めていた私はラジオや音楽の世界にのめり込んで生きました。

「海外に行けばやり直せるかもしれない!」そう考えた私はアメリカ留学を夢見ていました。

でも、その夢は「高校受験の失敗」によって断ち切られました。



ー高校時代ー

あと3日休んだら卒業できないギリギリのラインまで追い込まれながらもなんとか卒業。

円形脱毛症、不安神経症、強迫観念、躁鬱...。

リスカで楽に死ぬためシミュレーションを立てるようになったのもこの頃でした。



ー浪人時代ー

希望の大学に入学するために、浪人して1年間死ぬ気で勉強したのに。

気が狂いそうなほど辛くても机にかじりついて勉強したのに。

模試の成績からすると何事もなく合格できると思ったのに。

これからどうしよう...。



ー就職活動ー

大学三年生で就職活動を始めた私は迷っていました。

自分の進みたい道と進まねばならぬ道の葛藤。

あと一歩のところで届く「不合格」の通知は100を超えました。


「不合格」の通知を受け、自分の存在を

否定されているような気持ちになりました。



ーフリーター時代ー

100社以上の面接を受けてようやく小さな会社から内定をもらいました。

でも、数日後にはその内定を辞退する自分がいました。

電車に乗っている会社員の顔を見たときに耐えきれなくなったのです。


その後、就職活動はやめて、

飲食店、バー、飛び込み営業、テレアポ、工事現場、夜間警備、チケットのもぎりなど・・・

約2年間で30種類以上のアルバイトを経験しました。


就職活動で自信を失った私は、予定のない時間が耐えられなくなっていました。

空白の時間があると嫌なことばかり考えてしまうのでアルバイトを入れまくる。

それでも空いてしまった時間はパチンコで潰す。


いつしかパチンコ依存症になり、不安神経症になり、

希死念慮(=死ななければいけないと思うこと)が襲ってくる。


何も考えなくて済むように、

10種類以上のバイトを同時にかけもちしながら、バイトとばいとの合間に仮眠をとる。

朝も昼も夜も、寝る間を惜しんで毎日働き、苦労して稼いだお金は一瞬でパチンコに消えていく・・・。


そんな生活を繰り返しているうちに、

駅前の百貨店の屋上に頻繁に足を運ぶようになりました。


「ここから飛び降りれば楽に死ねそうだな」



むなしく日々を費やす自分が嫌で、

何度も「死のう」と思っていました。



ー20代前半ー

当時の私は、不安神経症、強迫性障害、過呼吸、双極性障害(躁うつ病)、統合失調症など、あらゆる精神的な病を抱え、心身ともに限界でした。


「もう、死のう」


ビルの屋上でフェンスを乗り越えて、そう決心した私が最後の最後で思いとどまることができたのは、ある男の子の存在があったからです・・・。



ー23歳ー

朝から晩まで働き続けた私の心と体はボロボロになっていきました。

体重は約15キロ落ち込み49キロに。

食べることが面倒になり、息をするのもつらくなり、1人で生きていけなくなった私は23歳で実家に戻り家業を手伝うことになりました。


「会社の後継者」という立場の私は、年上の従業員に認められねばというプレッシャーで押しつぶされそうになり、ストレスを過食で発散する日々。

気づけば体重は半年間で20キロ以上増えて72キロにまでなっていました。


ー25歳ー

バブル崩壊とともにやってきた多額の借金。

自己破産する人もいれば、夜逃げする人もいました。家族を守るために自殺を選ぶ人もいました。

でも、私にはそういった選択肢はまったく考えられませんでした...。

心の病


ー28歳ー

ヨガや自律訓練法、呼吸法、瞑想、アロマセラピー、心理療法など、本を読んでは実戦の日々が功を奏し、統合失調症や過呼吸などの精神疾患は最悪の時よりもずいぶん良くなっていました。


とはいえ、借金は相変わらず残ったまま。パニック障害の症状もまだ残っていて、家から出られないままでした。


孤独と絶望はますます深まり、「このまま一生この家でこんな毎日を過ごすのか?」と自問自答したとき、体中が震え、

「嫌だ!ずっとこの家に閉じこもったままで一生を終えるのは耐えられない!もういい!!どうせ死ぬなら、やれるだけのことをやって、それでもだめなら死のう」と決意しました。


落ちるところまで落ちたとき、真っ暗闇の中に光を見出したのです。


そこから家を出るための

車トレーニングが始まりました。



ー32歳ー

車トレーニングを始めて5年目のある日。

自宅から2キロくらいはなれた距離にある、川の橋の上までたどり着くことができました。


車を降りると、気持ちいい風が全身を包み、頭上から照りつける陽の光を感じました。

季節は初夏、時間は昼過ぎ、田舎なので橋の上からの見通しも良く、遠くには何度も登りに行った山も見えます。


青い空、白い雲、緑の山々。

7年間家の周りの景色しか見られなかった私にとって、この景色は心が震えるほどの絶景。



自分のやっていることは

間違っていないのかもしれない。

かすかな光が見えた瞬間でした。


ー34歳ー

私にはいくら感謝をしても感謝し尽くせない命の恩人がいます。

その恩人の急逝の知らせを受けたとき、まだ外に出られない状況。

葬儀に出てお礼の一言すら言えない自分が悔しくてたまりませんでした。


一年後の社葬には絶対参加する!

自分が変われた姿を見せて、ありがとうを伝えるんだ!



車トレーニングの目的が「外に出るため」から

「ありがとうを伝える」に変わった瞬間でした。



私が35年間の

つらく苦しい日々を乗り越えてられたのは、

Nさん、あなたがいてくれたから。



里親のママ、K社長、Nさん。


私にとって大切な人たちはみんな

感謝を結果で示す前に灰となって、

この宇宙のどこかへと消えていきました。


私は彼らに感謝しています。

でも、感謝を返すことはできません。


だから、せめて、

この宇宙に恩返しをします。


この命ある限り。